※本エッセイは2026年9月1日にAPRIN関係者用のメルマガで配信された記事を掲載しています。

研究公正は、科学に対する社会の信頼に関わる問題です。これは医療事故対策と共通点の多いことに気づきます。医療界では、1999年に重大な事故が相次ぎ、事故対策が大きく進みました。事故の背景は極めて多彩です。事故は起こるものと考え、現場のシステムを見直し、医療者の研修を強化するとともに、記録を徹底し、医療行為のプロセスや結果のばらつきをできるだけ小さくする。そのためには、医療の実態を可視化するデータが必要です。方針は上意下達ではなく、現場を預かる中堅が、医療安全担当者として、若手への指導や管理者への助言を行うようにしてきました。これらは研究公正でも同様です。例えば、昨年発足した認定研究公正アドバイザーCRIAは、医療安全管理者の役割を担っているといえます。
医療の対象は患者さんですので、目的は明確です。基本理念は、ヒポクラテス以来、「患者の利益を考え、害のあることをしない(Do no harm)」という言葉で伝えられてきました。一方、研究では、「真理の探究」を掲げることが多く、このため研究者の好奇心や知ることへの情熱が強調されます。しかし何のために、誰のための研究であるかについては、あまり語られてこなかったように思います。そもそも何でも研究してよいわけではありません。
科学が学術として発展するには、単に成果を誇るだけでは不十分です。このことを日本で最初に指摘したのは、明治初期に来日したエルウィン・ベルツ博士でした。「ベルツの日記」に以下の記述があります。
「日本人は西洋の学術Wissenschaftの成立と本質について、幾重にも誤解しているように思われます。人々は学問を毎年しかじかの成果を挙げ、無造作に別の場所へ移して仕事をさせることのできる機械のように考えています。しかしそれは間違いです。西洋の学術は機械ではなく、生き物のようなものです。あらゆる生物と同様に、成長には一定の風土と環境が必要なのです。・・・しかし、地球の大気が無限の時間の結果であるように、西洋の精神的大気も、自然と世界の謎の解明を目指す多くの傑出した精神の持ち主の数千年にわたる努力の成果なのです。それは困難をきわめた道であり、汗、しかも気高い人々のおびただしい汗と、流された血と火刑台の炎によって印された道です。」
科学を育む精神的大気は、社会と研究者が一緒になって作る必要があります。人材を育成するとともに、研究の成果を何らかの形で社会に還元します。研究には競争がつきもので、先取権争いも起こります。しかし行き過ぎた競争的環境は、研究者の功名心や経済的誘惑を招き、学問のあり方にも好ましくない影響を与えます。
科学研究の全貌を掴むことは容易ではありません。問題の所在を科学の歴史から考察したのが、トーマス・クーンの「科学革命の構造」(1961年)です。研究者は、時代の考え方(パラダイム)に従った枠組みのなかでパズルを解きつつ破綻を見つけ、科学コミュニティの意識を変えるような革命的科学を展開する機会を窺っています。そのためには情報交換の場が必要です。成果を評価するのも、科学者として育てるのも、科学のあり方を議論するのも研究コミュニティです。しかし業績を上げようとするあまりに、排他的なコミュニティを作ることは戒めなければなりません。
科学者と社会は対立することがあります。そこで両者を結ぶ仲介者が必要です。それは、「文科も理科も隔てない総体としての学術」に裏付けられた見識でなければなりません。これは先年、亡くなられた石井紫郎先生(元内閣府総合科学技術会議常勤議員、元東京大学副学長)の言葉です。石井先生は、先端研究の規制は、学術基盤に基づくソフト・ローによるべきという立場から、「学術基本法」の必要性を説かれていました。
科学の考え方や研究の進め方は多彩であっても、科学に携わる専門職として大切にすべき価値観が大きく異なるわけではありません。公正研究の原則はその一つです。AIが社会生活にも科学にも活用される時代であればこそ、研究者が主体的に、科学のあり方を考えて社会に説明し、科学と社会を調和させる努力が求められます。APRINに期待される役割はまさにここにあると思います。
